気持ち悪い自分を愛したい

昨年は失恋した回数が多すぎて、というかセルフ失恋というか自己完結型の実に傲慢な失恋が多すぎるんだけど、全ては自己肯定感が低すぎる自分に問題があって、そもそも恋愛の土俵に立てるほどの正常なメンタルなんて、そもそも持ち合わせてなかったんだけど、

自分を愛せない人間が他人を愛せる訳はなくて、自己完結型失恋が非常に多くて、別にそれは去年に始まったことではなくて、昔からずっとそうだったのだけど、失恋を繰り返せば繰り返すほど自己肯定感が高まるのか?というと、そんなことはなくて、自分の「心の穴」を失恋する度に幾度となく見返すという作業をひたすら繰り返してきた。

ヤリチンに失恋した時は、傷つけてくる人に子宮が反応して尽くすことで親子関係のやり直しをしたい自分に気がついたし、こじらせ系童貞に失恋した時は、性欲とか恋愛とかを蚊帳の外に置いて自分の世界を貫ける自分とは真逆の人間に憧れる自分に気がついたし、コンドームつけない男に失恋した時は、そこで「コンドームつけて」と言えない自分の弱さというか、そこまでして男から承認されたいという自分の自己肯定感の低さにまた気づかされたし、セフレに失恋した時は、改めてセックスすると情が移ってしまうんだなぁと安易なセックスに対して恐怖感抱くようになったし、すべからく、自分の弱さというか「心の穴」を見直す機会に恵まれた失恋続きの一年だった。

自己肯定感の低い人間は、自分の中にある満たされない承認欲求を男やセックスが埋めてくれるんじゃないか?と勘違いしていて、安易な恋に落ちたり安易なセックスに走ったりしやすい気がする。

その結果、私のようなメンヘラビッチの場合は、自己肯定感が低すぎる延長線上で恋に落ちるので、恋に落ちた相手と対等な関係になることはない。

圧倒的に自分を卑下しがちなので、必要以上に相手に尽くしてウザがられたり、その人の奴隷になりたがったりする。

 

小さい頃、私はお母さんからとても厳しい教育を受けてきて「100点とらないとまいちゃんじゃない」とか「東大行って医者か弁護士になりなさい」と幼稚園生くらいの時から言われ続けてきて、だけど全然お母さんの期待には答えられなくて、進学校行っても平均点とれるのがやっとくらいで、同級生は皆んなとても頭が良くて、私は勉強するストレスで痔になるくらい勉強するのが嫌いで、お母さんの期待に答えることが出来なかった。

成績表を見せると怒られるのが分かってるから、もう嫌で嫌で仕方がなくて、そんなことを繰り返していたものだから、親に反発して、一番勉強しなくていい私大文系コースを選択した。

医者でも弁護士でもない職業を選ぼうと思った。

私の中では「お母さんの期待に応えられない私」という罪悪感はずっとあって、「勉強ができない子=悪い子」みたいなセルフイメージがあって、そのトラウマが拭われるまでだいぶ時間がかかったように思う。

大学生になって初めて出来た超絶束縛系の彼氏の家に入り浸るようになってから門限を破りまくるようになり、そこでも日常的に「アバズレ、アバズレ」と言われまくったりして、何度も家族会議が開かれて、お母さんの言いつけを守れない私は「悪い子」だった。

母親に対して常に罪悪感を感じていた。

 

なぜ私の自己肯定感が低いのか?は、育った家庭環境うんぬんだけでなくて、生来の気質によるところも勿論あると思うのだけど、気がつくと私は自分で自分を罰する思考性を身につけるようになってしまった。

何か問題が起きたり怒られたりする度に「私が全部悪いんだ、私が全部悪いんだ、、、死んだほうがいい、死んだ方がいい、、、」と最終的には自殺願望に苛まれるまで自分を罰する思考性のクセが身についてしまったのはいつの頃からだっただろう?

最初に自殺したいと思ったのは小学5年生の頃で、ガリ勉のまいちゃん呼ばわりされていて性格が死ぬほど悪かった私はクラスメイトからハブられるようになり、登校拒否したいと言ったのだけど無理矢理学校に連れて行かされて登校拒否は諦めて、家の中にいても居心地が悪くて死にたくて死にたくて包丁を持ってみたり、家の屋上から泣きながら下を眺めては飛び降りる妄想を何度となく繰り広げてみたりした。

その後、中学生になっても高校生になっても大学生になっても社会人になっても定期的に「死にたくなる」ことはよくあった。

自殺願望とは、小学5年生の頃からいつも隣り合わせで生きてきた。

自分を罰したくなる罪悪感、自己加害妄想みたいな思考性ともずっと隣り合わせで生きてきた。

だから、私にとって自意識というものは非常にネクラなもので、思考する=死にたくなるみたいな無限ループにとらわれてしまうものなので、いかに「思考しないで生きるか」とか「脳みそより身体的な感覚を大切にする」とか言うフレーズは、とてもしっくりくるものだった。

だから、私の場合は脳みそであまり思考しない方がいいし、直感の方が正しいことが多いし、五感を大切に生きようとも思っていて分かっているのだけど、ふと気がつくとまた自分バッシング無限ループが始まって、定期的にやはり憂鬱期はやってくる。

かと思えば、死ぬほど感動して恐ろしい高揚感にまみれて眠れなくなるようなランランとした躁状態も不定期でやってくる。

自分で自分の感情をうまくコントロールすることは出来ない。

それでも昔に比べればだいぶ生きやすくなったし、死にたいと思うことはあっても、現実的な行動は起こさずに寝ようとかダラダラしようとかちょっとずつ思えるようになったし、何より躁の時も鬱の時も、そういう自分の気持ちを伝えられて、ただ受け止めてくれる友人に恵まれていることが非常に精神的な支えにはなっている。

 

失恋からの下りで何が言いたいのか訳が分からない文章になってしまったけど、私は躁鬱気質で不定期に自殺願望が襲ってくるメンヘラで、自己肯定感が低くて罪悪感に苛まれていて自己加害妄想があって、ようは非常に気持ちの悪い人間なのだけど、病める時も富める時もそんな私に引かないで受け止めてくれるとても優しい友人には恵まれていて、年々生きやすくはなっていて、これから先、どうなるかは分からないけど、とりあえず死なないでいようと思えるようになって本当に良かったなと思う。

 

「恋愛が出来る土壌に立つメンタル健康児」というハードルはクリアしていないかもしれないけど、私は自分の気持ち悪さを愛でてあげながら、情緒不安定な感情の波を日常的にサーフィンしながら、そういう自分の生存戦略をこれからも考えつづけて生きていきたいなと思う。

気持ち悪い自分をもっと自己受容して自己受容して自己受容したい。

心の穴を愛でて愛でて愛でまくりたい。

正直、もう恋愛なんかいらない。

恋愛以前に、まずは自分を愛してあげないとなと。

もっと気持ち悪い自分を愛してあげないとなと。

昨年度、実験的なイベント「メンヘラビッチバー」をやって思ったことは、気持ち悪い自分を曝け出せる場ってなんて居心地がいいんだろうということだった。

恥を晒して笑い飛ばして前を向いて生きていける場所に「メンヘラビッチバー」がなっていけばいい。

私はだいぶ気持ち悪い人間だけど、もっともっと気持ち悪い人間が気持ち悪さを露悪できる世の中になったらいい。

多様性ってなんだ?
メンヘラやビッチに不快感を感じる人もいるんだろうけど、それ以上に、世の中にはメンヘラやらメンタル健康児やらビッチやら童貞やらヤリチンやらいて、皆んな違って皆んないいじゃないか。
「人を意図的に傷つける」ということをしなければ。。。

辛い苦しい経験を吐き出すことで承認欲求が満たされて自分を愛せるようになる人もいるはずだ。

私がそうだ。

もっともっと気持ち悪い自分を曝け出していこう。

恥を丸出しに晒して生きていこう。

泣いて笑って気持ち悪い自分をもっと愛して生きていきたい。

恋愛なんかもういらない。

私はただ、私をもっと愛してあげられるようになりたい。