「愛」について
自分の中にある「愛情」というものは、膨張したり収縮したりを繰り返していて、その愛情の量というのは自分の精神状況に非常に左右されている。
愛情に溢れんばかりの時は、誰彼構わず「大好き大好き」と言いまくったり、色んな人に連絡をとったり、初対面の人でもすぐに大好きになったり、すなわち、躁状態なのだが、そうやって無尽蔵に愛する人が昨年は増えていった。
一方、冬が深まるにつれて鬱傾向が強まってきて、今の私の中にある愛情の量は縮小している。
自分に対して疑心暗鬼になり、まず、自分自身が大嫌いになり、人と会うのが億劫になる。
そして、人に対する「愛情」は縮こまり、人と会うのが怖くなり、自己嫌悪のループに陥る。
躁の全能感に溢れた私は、みなぎる愛情を無尽蔵に振りまくことが出来るのに、鬱傾向が強まってくると、ただの引きこもりと化す。
じゃあ、どっちの自分が本来の自分なのか?といえば、どちらも本来の自分であって、常に変わり続けていくものなのだろう。
自分自身は一定した存在ではない。
ただ、「愛情」が無尽蔵に増幅している状態の方が気分がいいし、多幸感があるし、他人に対してもとても優しくなれるし、とてもいい。
一方で、引きこもり鬱モードの時は、疑心暗鬼になりがちで、自分が大嫌いになり、それと平行して他人に会うこともとても怖くなる。
現在の私は鬱傾向が強く、自分が嫌いすぎてどうしようもないのだが、その中でただ、ひたすらに、もがいている。
最近、食べることがやめられない。
お腹が空いてなくても、ひたすら食べ物に手が伸びる。
尋常でない飢餓感に襲われている。
心が寂しい寂しいと飢餓感を訴えてくる。
どうしていいのか、皆目分からない。
寂しいくせに人と会うのが怖くて、呑みや遊びの連絡をもらうのに、人と会う気力も湧かない。
ただただ寝ていたい。
どうしていいか、分からない。
よく聞くフレーズ。「自分を愛せるようになろう」
何度も言われたり、本やら映画やら音楽やらで何度も見聞きしてきたことだ。
私も自分を愛せるようになりたい。
特に鬱傾向の強い今だからこそ、自分を愛して大切にできるようになりたい。
長らくシェアハウス生活を送ってきたのだけど、あまりにも引きこもりたいモードが強くなりすぎて、いったん、実家に戻ることを考えている。
どうにか移動式ゲストハウスの出発までにはメンタルを回復させたい。
引きこもり鬱モードの私にとっての「愛」とは、非常に自己中心的なものだ。
自分が嫌いすぎて、他人へ愛情を配ることが億劫になる。
ここから抜け出すために、自分をいたわる「愛」をとりあえず育みたい。